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みのかみマスカット園BLOG

日本庭園はとても気持ちの落ち着くところです、時間があれば気のあった仲間とこの広間を借り切って、世間話でもしながら歓談したいものです。(贅沢すぎるかな?)どうも近頃流行の洋風の庭園は綺麗ですが落ち着きません(やはり日本人ですかね?)
こんな所を1人でそれも急いでみて回るのは ダメ ですしっかり時間をとって2,3人の気の会った連中と再度訪問したいものです。今回で「頼久寺」は終わり次回は同じ高梁の「備中松山城」です。
DSC03422.jpg 

私も日本人なのか日本庭園(後楽園の大きな庭園も良いが)頼久寺のような小さな庭園が気になっている、我が家も5坪ほど9月から10月にかけて玄関先を和風にしたもので特に興味を持ってこの庭園を眺めました、遠くの山々を借景に利用し小さな庭園なのに奥行きのあるすばらしい庭園でした、建屋の奥のほうから縁側の柱や、屋根を額縁のようにして眺める庭園は時を忘れて落ち着く雰囲気です。 DSC03413.jpg  DSC03420.jpg 

頼久寺は備中松山城の平常時は殿様の住まいとして使われたこともあり、入り口の造りもまるでお城の入り口のようである。
頼久寺入り口.jpg 庭はお寺の部屋の中から見ると額縁の中の『絵』のようである(石庭)それぞれに配置された草木と石の織り成す光景は一瞬昔に返ったような気持ちにさせてくれる。
DSC03410.jpg 

昨日(11月21日土曜日)仕事の打ち合わせで備中高梁へ行った、打ち合わせは1時間ほどで済んだので空いた時間を利用して「頼久寺」を訪問した。ウイキペイアによると頼久寺の歴史は下記のように記されている。

歴史 [編集]
起源については不詳である。

1339年(暦応2年)、足利尊氏により再興され、備中国の安国寺とされた。当時、中国より帰国した寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とする。

永正年間(1504年 - 1521年)、備中松山城城主、上野頼久が大檀越となり寺景を一新した。1521年(大永元年)、頼久が逝去したので、その2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称する。

庭園 [編集]
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで東軍についた功により小堀正次が備中国1万4千石に封じられ、1604年(慶長9年)に逝去したため子の作助政一(小堀遠州)が遺領を継いだ。この頃の備中松山城は備中兵乱後で荒廃していたため、政一は頼久寺を仮の居館とし、1619年(元和5年)の移封までここで過ごした。

境内の庭園はこの頃の政一(遠州)により作庭されたもので、蓬莱式山水庭園である。愛宕山を借景し白敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。

このような築庭様式は、桃山時代から江戸初期にかけて盛んだったもので、現在まで当時に近い状態で保存されているのは貴重であるとされ1974年(昭和49年)に、国の名勝に指定された。

頼久二寺は庭が有名である、江戸時代初期の様式であるらしい、
頼久庭1.jpg 頼久庭2.jpg 

いよいよ「本山寺」最終回です、今回不覚にも岡山県重要文化財の「三重塔」を見逃しました、時間もなかったのもありましたが、良くした調べをしてから参拝すればよかったと思っています。本山寺は境内が広く上へ上へと建物があり離れているので見取り図を見て参拝してください。
御霊屋緑.jpg 御霊屋.jpg 御霊屋、門とも檜皮葺の屋根でとても立派なものです、晩秋の木々に囲まれ平日の午前中ともあって人がいなかった、今だからこそ交通も(道路)も整備され車で参拝する事が出来ますが7~800年前を創造するとこんな山中にこのようなお寺を建てたこと自体が不思議でしょうがない。
又次回をお楽しみに!

現場の仕事が続き帰ってきて書くのが疲れてしまって長いお休みでした、
本山寺の続き、立派な石垣を左手に石段を登ると左手に「御霊屋」がある階段からは見えないので客殿の庭を通り右手に上ってゆくと見えてくる、入り口の門は金色に輝く扉飾りがしつらえてあり立派な建物だ。
客殿庭.jpg 御霊屋門.jpg 門飾り.jpg 又明日

仁王門をくぐると左手前方にまるでお城の石垣を思わせるものが見える、石垣の上には「寺侍長屋」が建ち、門もお城の門の様式である。
石垣01.jpg 門01.jpg 門をくぐると客殿があるが、人もいなく入っていいものやらわからなかったので今回は見ていない、どちらも1845年の建造である、
説明書を読むと、津山藩の祈願所として祭られたと記されている、この続きは又。

前回は仁王門まで、仁王門の両側には左右に2体の「仁王」があります、
左仁王門.jpg 右仁王.jpg 何時頃の作なのかは確認していませんが木彫りの大変立派な「仁王像」です。
神社、仏閣を今まで何度か観光で訪れた事はありますが、「立派な建物だなー」「綺麗だなー」で終わっていました、その成り立ちや、時代背景などを少し勉強してみると又違った感覚で見ることが出来るような気がします。「本山寺」も西暦700年頃の開山、来年平城遷都1300年、この頃に造られたお寺です、和気清麻呂の時代です。

今日は約束どうり「板さん」からの投稿です。
メールの文章とともに掲載いたします。
7日(土)の山陽新聞にライトアップされた「閑谷学校の楷の木」が載っていたので、早速8日(日)に行ってきました。
大勢の観光客で、朝10時過ぎに着いたにもかかわらず、駐車場に入るまでに15分程待たされました。
右の黄色い葉の方は、既に3割程度散っていました(-_-)でも、同じ種類なのに、紅と黄に分かれるのって不思議ですよねェ。

楷の木.jpg 楷の木1.jpg 
同じ木なのに紅葉の進み具合が違うって不思議ですね!、又1枚目の写真の紅葉の色が「ピンク」の色とても綺麗です、なかなかこんなチャンスはありませんよ。
ありがとうございました、またドンドン投稿してね!!

秋ですねー、紅葉の便りがあちこちから来ています。
一番目は「rrkugaki」さんの  「奥津渓より」の写真です(僕も行ってみたいなー)
奥津峡 065.jpg 
下の写真は秋桜(コスモスではありません)今咲いているそうです、紅葉と桜一緒に見えるのは楽しいですね!
奥津峡 020.jpg 
もう一軒「板さん」から届いています、明日掲載しますお楽しみに

ウイキペディアによると本山寺の沿革は下記のように書かれている

沿革
寺伝によれば大宝元年(701年)頼観上人によって現在地より南方の山頂に創建され「新山寺」と名付けられた。創建より約50年後に現在の本山寺に改められたとされる。

平安時代の末期、天永元年(1110年)に現在の地に移され天台密教の山岳道場として、また、庶民信仰の霊地として栄えた。僧坊も120を数えたと言われている。長承元年(1132年)には法然の両親・漆間時国夫妻が安産祈願を行っている。

江戸時代になると津山藩の祈願所となり、藩主の森氏、松平氏に信仰された。境内には森氏の霊廟が建造されたが、のち松平氏の霊廟となり現在に至っている。


この沿革説明文を読んで、今から1000年以上前の歴史が残っている事が不思議でならない
西暦700年代末期は「和気清麻呂」が活躍した時代である、その時代に現在と同じ様な建物があったわけではないだろうが、その時から延々とこの寺の歴史が引き継がれてきていることに歴史の重みを感じます、
「仁王門」手前の左側に約30体ほどの石仏が並んでいます。
石仏1.jpg どのくらいの歴史があるのかわかりませんが、一つ一つ思いをこめて造られたのだと思います。どの石仏も優しい顔をしています。
石仏2.jpg 

国道53号線を北上し福渡を過ぎ弓削の庁舎を右折し20分ほど走ると右手に看板(3Kで本山寺)今まで何回となくこの看板を見ていたがなかなか立ち寄る事が出来なかった、今回は14:00時に現場集合と時間の余裕があったので立ち寄る事が出来た。
本山寺看板.jpg 案内の看板、時間の余裕があるといっても30分ほどしかなかったので、写真を撮るのが精一杯でした、駐車場のそばの看板そこから見える「仁王門」かなり立派な造りである。

仁王門.jpg この続きは次回、お楽しみに!!

鳩山総理の所信表明も終わり、野党となった自民党の代表質問が始まりました、全部は聴いては居りませんがなかなか面白い、人間同士のやり取りになったように思います、聴いていても身近に感じます、加藤代議士の質問はなかなか面白かったです、国会討論は今まで個人の「揚げ足取り」的な質問が多かったのですが今回は多少はありますが『政治』にかかわる質問が多く「国会」と言う名にふさわしい質疑応答になっているように思います、民主党も「マニフェスト」ばかりにこだわっていたのでは良い政治にはならないでしょう、世界は動いているのですから、今後も期待を持って見守りたいです。
今日の写真は「茅葺屋根」前回最後だといいましたがまだありましたので掲載します。
茅葺10.jpg 茅葺11.jpg もう残りはわずかですが時間はかかると思います、まず全体の萱をそろえて、端を切りそろえる、屋根瓦をてっぺんにのせ固定するここからが職人の腕の見せ所だと思います。

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