昨日(11月21日土曜日)仕事の打ち合わせで備中高梁へ行った、打ち合わせは1時間ほどで済んだので空いた時間を利用して「頼久寺」を訪問した。ウイキペイアによると頼久寺の歴史は下記のように記されている。
歴史 [編集]
起源については不詳である。
1339年(暦応2年)、足利尊氏により再興され、備中国の安国寺とされた。当時、中国より帰国した寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とする。
永正年間(1504年 - 1521年)、備中松山城城主、上野頼久が大檀越となり寺景を一新した。1521年(大永元年)、頼久が逝去したので、その2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称する。
庭園 [編集]
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで東軍についた功により小堀正次が備中国1万4千石に封じられ、1604年(慶長9年)に逝去したため子の作助政一(小堀遠州)が遺領を継いだ。この頃の備中松山城は備中兵乱後で荒廃していたため、政一は頼久寺を仮の居館とし、1619年(元和5年)の移封までここで過ごした。
境内の庭園はこの頃の政一(遠州)により作庭されたもので、蓬莱式山水庭園である。愛宕山を借景し白敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。
このような築庭様式は、桃山時代から江戸初期にかけて盛んだったもので、現在まで当時に近い状態で保存されているのは貴重であるとされ1974年(昭和49年)に、国の名勝に指定された。
今日は約束どうり「板さん」からの投稿です。
メールの文章とともに掲載いたします。
7日(土)の山陽新聞にライトアップされた「閑谷学校の楷の木」が載っていたので、早速8日(日)に行ってきました。
大勢の観光客で、朝10時過ぎに着いたにもかかわらず、駐車場に入るまでに15分程待たされました。
右の黄色い葉の方は、既に3割程度散っていました(-_-)でも、同じ種類なのに、紅と黄に分かれるのって不思議ですよねェ。
同じ木なのに紅葉の進み具合が違うって不思議ですね!、又1枚目の写真の紅葉の色が「ピンク」の色とても綺麗です、なかなかこんなチャンスはありませんよ。
ありがとうございました、またドンドン投稿してね!!
ウイキペディアによると本山寺の沿革は下記のように書かれている
沿革
寺伝によれば大宝元年(701年)頼観上人によって現在地より南方の山頂に創建され「新山寺」と名付けられた。創建より約50年後に現在の本山寺に改められたとされる。
平安時代の末期、天永元年(1110年)に現在の地に移され天台密教の山岳道場として、また、庶民信仰の霊地として栄えた。僧坊も120を数えたと言われている。長承元年(1132年)には法然の両親・漆間時国夫妻が安産祈願を行っている。
江戸時代になると津山藩の祈願所となり、藩主の森氏、松平氏に信仰された。境内には森氏の霊廟が建造されたが、のち松平氏の霊廟となり現在に至っている。
この沿革説明文を読んで、今から1000年以上前の歴史が残っている事が不思議でならない
西暦700年代末期は「和気清麻呂」が活躍した時代である、その時代に現在と同じ様な建物があったわけではないだろうが、その時から延々とこの寺の歴史が引き継がれてきていることに歴史の重みを感じます、
「仁王門」手前の左側に約30体ほどの石仏が並んでいます。
どのくらいの歴史があるのかわかりませんが、一つ一つ思いをこめて造られたのだと思います。どの石仏も優しい顔をしています。
鳩山総理の所信表明も終わり、野党となった自民党の代表質問が始まりました、全部は聴いては居りませんがなかなか面白い、人間同士のやり取りになったように思います、聴いていても身近に感じます、加藤代議士の質問はなかなか面白かったです、国会討論は今まで個人の「揚げ足取り」的な質問が多かったのですが今回は多少はありますが『政治』にかかわる質問が多く「国会」と言う名にふさわしい質疑応答になっているように思います、民主党も「マニフェスト」ばかりにこだわっていたのでは良い政治にはならないでしょう、世界は動いているのですから、今後も期待を持って見守りたいです。
今日の写真は「茅葺屋根」前回最後だといいましたがまだありましたので掲載します。
もう残りはわずかですが時間はかかると思います、まず全体の萱をそろえて、端を切りそろえる、屋根瓦をてっぺんにのせ固定するここからが職人の腕の見せ所だと思います。